「いいひと」と出会うのは自分次第、説。 オシム

はたまたオシムです。
またご無沙汰してしまいました…
大変失礼いたしました。。


何をブログに書こうか…
そうだ、こないだふと思ったことがありましたので
それを書きたいと思います。


世の中には
「自分の周りはいやなやつばっか」
という人と
「自分の周りはいい人ばっか」
という人がいます。


わたしは完全に後者。
いままで出会ってきた友人知人すべて、
本当に運よくいい人にばかりめぐり会ってきたと思っていました。


でも最近思うのです。
もちろん運もある、環境もある、まして会ってきた母数が違えば
そりゃいい人に会う数もやなひとに会う数も違うとも思うけれど、
同じ数を比較したときに、その数が上記両者で明らかに異なるのは
なぜだろう、本当に運がいいだけなのだろうか、と。


それが異なる両者の違いとして、私が行き着いたのは
ひとつは、各人の所感の違い、
もうひとつは、対象となる人に対する各人の態度の違い
ではないだろうかということ。


特に前者は、そりゃそうでしょ、と思いますよね。
同じものをみていいか悪いかを判断する基準が違えば
○×の数は異なってくるはずです。


ただし注目すべきは後者。
やなやつだと思ってから、その人を受け入れる姿勢があるかどうか、
とも言えると思いますが、
「この人は私には合わない」
と判断したらそれ以降自分の態度が明らかに変化してしまう人は
余計に相手の態度の悪さを増徴させてしまうのではないかと思うのです。


いい、悪い、という話は、本当に各自の所感によって異なるので
非常に難しい話ではあるのですが、
嫌なひとだから、と判断して、結果として自分も嫌な態度を取っていれば
その人にとっても自分が嫌なひとになってしまっているのではないかと思うのです。


だからみんないい顔してやな態度とるな、といいたいわけではありません。
自分の所感を大事に、判別をするのはいい点もあると思います。


ただ、必要以上に関係を悪化させて、本質と異なることまで
批判をしあったり、本当はいい面を見つけても
それをつぶして隠してみないふりをするのは
違うのではないかな、と私は思うのです。


できるだけ自分にとって「いい人」にばかり出会いたい。
でも相手をどう自分にとって「いい人」にできるかは
相手によるところが大きいけれど、
自分によるところも大きいのかもしれないなぁ、と。



これはこれ、それはそれ、と、
私もまだまだ判断できないのですが、
いいと思うことをぐんぐん取り入れていけるように
人も物事もうまく消化していくことが出来ればいいのではないかな
と、また物思いで学ぶオシムなのでした。



オシム