「当たり前」はつくるもの。 オシム

もうすぐGW。
そういえば、アノ例の大仏事件を書いたのは
昨年のGWの出来事だったので、
早いものであれからもう一年経ったのですね。


今年は最大16連休なんていわれていますが
仕事のない現状がそうさせていることも一部あるのかと思うと
素直に喜べない現状です。




暇はあるのにお金がない…
そんな状況あったなあ…




と思って思い出したのは、
前職を辞めて、今の会社に入るまでの休暇期間。


ある程度の貯金はしていましたので
せっかく一生に数度とない長期休みだったので
ここぞとばかりに遊びました。




普段なかなか会えない平日休みや地方の友人に会い、
行きたかった場所へ一人旅をし。


そうして過ごしていくと、
仕事をしなくても意外と毎日は多忙でした。




が、着実に貯蓄は減りゆく。




当然です。
なぜならば当たり前のように毎月入ってきていたお給料は
働かなければ通例日に入金があるわけもなく
あるのは支出のみ。


職がなく、そんな生活をしていたら
どんぶり勘定なわたしの場合、即破産です。




当時、この、働かざる環境が続けばいいなあと
少し思いました。


けれど、暇があってもお金がなければ
単純に遊びに行くことも、ご飯を食べることも
そもそも生活することが出来ない。


実際に無職で、少しずつ貯金を切り崩していくという、
楽しくも不安を抱えた生活の中で思ったことは
社会の荒波に揉まれていた怒涛の毎日も
なにもなくただ家にいることの罪悪感や
明日の生活を想う不安感と比較したら
よっぽどいいということでした。




ひとは、生まれてから育てられ、学校に入り社会にでる。




大人になれば、社会にでて、働くものだ。
働ければ当然、お金はもらえるものだ。




小さい頃「当たり前」と思っていたものは
「当たり前」なんかではないということは
思えばこんな状況になる前から、
実は明らかなことでした。




いままで今より余分に仕事があったから
いままで今より余分にお金があったから
成り立っていただけのこと。




与えられたものは自分で勝ち取ってきたもの。
失っていくものは自分で選んだ道。




現状はすべて「当たり前」などではなく
自身の努力や、それに伴って生成された魅力で
良くも悪くも結果がついてきただけのことなのです。


ちょっと状況がいいと、その評価は甘くなるけれど
状況が悪くなればシビアに個人を評価される。
単純にそういうことなのだと思います。




なにかが足りないならその分自分が頑張らなければならない。
自分が失ったものは取り返したかったら自分で取りに行かなきゃ。


…えらそうなことをいえる立場ではございませんが
それが自分の理想へと近づくための努力だと私は思います。




ただし、私は将来、自分が子供を生んで育てることを想像すると
少なくとも教育段階においては、「当たり前」に大人になれる
環境だけは与えてやりたいなあと思います。


だって働けない子供には努力しても
「当たり前」な環境を作れないので。
それをどう選んで生きていくかは本人次第ですが。




そのためには、大人になっている自分が
今がんばらなくちゃいけない。
楽な仕事なんてないです。
でも、せめて自分が成長できるなあとか
楽しいとこも見つけながらお金も稼いで次世代を育てたいです。




…なんか暗い文面ですが、違いますよ??
本当にいま、淡々と、自分に努力が足りないと思い、
さらに頑張って生きたいと思っているのです。
いわば決意表明。


まだまだ足りない私ですが、
これからもみなさま、あたたかく見守ってくださいね♪


以上、現場のオシムでした!!